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韓国レポート2004

Photo in Korea 2004
橋本努200403

 

 2004216日から224日までの九日間、韓国を訪問してきました。以下に簡単に、今回の滞在について記しておきます。

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 中山智香子先生の仲介で、私は韓国ハイエク協会(Korean Hayek Society)という団体から講演の依頼を受けた。設立されてから5年目というこのグループは、古典的自由主義をテーマに掲げる研究者集団。そのメンバーは30人ほどである。主として近代経済学を研究する人たちで構成されているが、他にも財団や研究所に勤める人や、あるいは理科系の研究者や哲学者なども参加していた。またグループの創設者は、元ジャーナリストのクァンさんという方で、一時はブータンで国家アドバイザーをも勤めていたという。お会いしてみると、とても気品に満ちた文人タイプの知識人であった。設立に際してこのグループは、日本の経団連にあたる韓国の圧力団体から少し資金を提供してもらい、また毎年200万円程度の活動資金を得ているというが、その資金で作られたホームページはなかなかスタイリッシュなデザインである。ただホームページの英語版が作られていないのは残念であった。

 招待に際して私が危惧したのは、この団体の政治的志向性であった。もし政治的にラディカルな団体であったら、なにか私の意図しないところで事が進むのではないか、という不安もあった。そこで私は、韓国人の友人にこのホームページの情報を読んでもらうことにした。するとメンバーの中には、ニューヨーク大学のマリオ・リッツォの下で博士号を取得したキム・イソックさんがいるというので、それで私は安堵したわけである。

韓国で実際にいろいろと尋ねてみると、このグループは政府の規模を小さくすることをスローガンに掲げているという。しかしメンバーの中にはカール・ポパーの翻訳者などもいたりして、思想的にはバラエティであった。なるほど現在の韓国政治は、財界と癒着した旧与党ハンナラ党がノム・ヒョン大統領の弾劾に訴えるという、極めて混乱した状況にある。これはまさに、韓国の政治が財界の力で牛耳られてきたこと、そして現在もそうした勢力が政治を台無しにしていることを示しているだろう。韓国ハイエク協会は、こうした政治と民間企業の癒着を、とりわけ「道徳」の観点から批判している。「いまの韓国は、不況下でますます社会主義化しており、政治のモラルが下がっているのだ」と、あるメンバーは嘆いていた。つまり、韓国ハイエク協会は現在、財界と癒着したコーポラティズムの政治に異議を唱えているわけだ。(3月になって、ハンナラ党は党首が辞任、またその豪華絢爛な党本部ビルを売却して、プレハブの仮設本部に移ることになった。党本部のビルを売却しなければならないほど、この政党は国民の怒りを買っていたのである。)

 ところで、韓国ハイエク協会から依頼された私の講演内容は、「日本のハイエク主義者は現在の日本経済をどのように診断するか」というようなものであった。正確に言えば、講演内容は何でもよかったのだが、私のほうから最も期待に添うテーマを選んでもらったわけである。当初の私の願望では、「日本におけるハイエク研究史」というような報告をして、韓国のハイエク研究者たちと交流を深めたいと思っていた。しかし韓国ハイエク協会は、学説研究よりも政策分析に重点を置いているということで、私はせっかく招待される以上、彼らの期待に添って、「日本の失われた10年:ハイエク的観点から」という報告(英語)をすることにした。

 このテーマは私にとってかなりチャレンジングであったが、とにかく夢中になって論文を作成した。一時は参照すべきその膨大な文献量にたじろいだが、最終的には一ヶ月半をかけて、それなりの準備をすることができたように思う。その内容は、バブル崩壊から現在に至る日本経済について、さまざまなデータを扱いながら論じ、さらにハイエクの観点から経済思想的なインプリケーションを語るというもので、40頁におよぶ長文英文論文になった。また当日のプレゼンテーション用に、パワーポイント用文書を作成した。韓国の経済学者たちを前に日本経済について語るということで、私はかなり緊張して準備を進めていたのであった。

 もっとも私の講演は、今回の韓国滞在の一部に過ぎず、その他の滞在日は、いろいろと韓国の文化を楽しんできた。以下に、滞在初日の出来事から記しておきたい。

 

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北海道の新千歳空港からソウルのインチョン空港までは、約3時間のフライト。北海道から九州に行くような感覚であるが、しかし私にとってまったくの別世界に着陸する。滞在初日は、インチョン空港からバスでソウル市内に向かい、夜7時ごろには予約しておいた宿に着く。ソウル・ゲストハウスという古い民家をそのまま利用した民宿であるが、なかなか居心地がよくてほっとする。

韓国を訪れる前にハングル語を勉強してみたが、とにかく講演原稿を英語で書くことが精一杯で、ろくにハングル文字を読めずにソウルに来てしまった。それでいざバスに乗るというときに困ってしまい、そのときから緊張してハングル語の勉強をはじめる。

ソウル・ゲストハウスという民宿はなかなか面白い宿である。そのご主人は、日本の筑波大学に留学経験をしたこともあり、自由な知識人という風貌であった。お話しを伺うと、ご主人はいろいろなアイディアをもっていて、最近は経営手法に関する特許の申請を考えているという。また大韓航空機爆破事件についてもご主人は新説をもっており、実際に彼の説が韓国の新聞でも取り上げられていたりして、大変興味深く思った。北朝鮮の工作員で事件の犯人とされるキム・ヨンヒは、韓国で情報局の人と結婚したとされるが、しかしそもそも、爆破されたとされる航空機はいまだにその破片が見つかっておらず、またこの事件はオリンピック前に起きたということもあって、政治的にでっち上げられた可能性がある。ご主人によれば、いまや韓国では多くの人々が、この事件を疑っているという。あれは北朝鮮批判と当時の政権保持のためにでっち上げられたものではないか、と。そんな話をするご主人に、初日の夜は近くのサウナを紹介してもらって、サウナから戻るとこんどは宿の居間で、韓国のお酒を飲みながら夜遅くまで語り合ったのであった。

 滞在二日目は、延世大学(日本の慶応大学のような有名私立大学)の経済学部教授、テイさんとハンさんの二人にお会いして、インサドン(仁寺洞)で昼食を共にする。北海道大学の経済学研究科と延世大学の経済学部は姉妹校の関係にあるので、その関係で私は前もってアポイントメントをとっておいたのであった。インサドンは古い町並みが残る通りで、ソウルの中心部にある。そこで私たちは、いろいろな話題に花を咲かせながら韓国の伝統料理を楽しんだ。ハン先生(Prof. Hoon Hong)は経済思想がご専門で、ケンブリッジ・ジャーナルに載った彼の論文は大変興味深く、以前からお会いしたいと思っていた。会ってみるとなかなか魅力的な人である。その日私は、彼の研究室にまでお邪魔をして、氏の研究史についていろいろと伺うことができた。例えば、彼はマルクスの研究からはじめてメンガーやハイエクの研究へと向かったのだが、その過程で、例えば日本のマルクス研究書を研究したり、あるいはまた、北朝鮮におけるマルクス『資本論』の翻訳がいかに韓国の翻訳と異なるかを研究したりしたという。大変興味深いお話しだった。

午後3時頃からは、ハン先生の下で研究している大学院生のキムさんが、ソウルの街を案内してくれた。最初に延世大学のキャンパスを案内してもらったが、由緒ある建物の周りに新しく近代的な建物が立ち並び、例えば財界の資金で建てられたという工学部の研究棟は、そのデザインが斬新で目を見張るものがあった。キャンパスの正門を出ると、地下鉄シンチョン(新村)駅まで徒歩5分の距離に学生街が広がる。この通りを抜けてシンチョン駅に向かい、そこから地下鉄を乗り継いでチョンガク駅へ。チョンガク駅からすこし歩くと、ソウル中心部にある最大級の書店「教保書店(Kyobo Bookstore)」に到着する。その近くのカフェでコーヒーを飲んでキムさんと別れたのであるが、彼はなかなかの好青年で、とても礼儀正しい振舞い方で街を案内してくれた。尋ねてみると、彼はもともと経済思想を研究していたのだけれども、就職のことが気になって国際金融論を勉強するようになり、現在は就職活動をしているという。けれども最近の不況でなかなか職を得ることができず、彼の彼女はハナ銀行に勤めているのだけれど自分は落とされた、というようなことを言っていた。延世大学のような一流大学の学生でもこのような状況なのであるから、韓国経済の低迷が危ぶまれる。

 滞在三日目、今度は私のニューヨーク滞在時代の友人、ヒェランさんといっしょに、景福宮(キョンボックン)という古い王宮を観光する。彼女とはニューヨークの語学学校で知り合ったのだが、実に3年ぶりの再開に感激。現在彼女は、大学院で英文学を専攻しており、かなりハードな研究生活を送っているようだった。インサドンで伝統的な韓国料理を共にして、そこから10分も歩かないうちに景福宮の正門「光化門」にたどりつく。正門をくぐると、韓国特有の緑を基調とした色彩の宮殿が立ち並び、その高貴な美しさに接して圧倒される。王宮内にある国立民族博物館と国立中央博物館も見学したが、とりわけ中央博物館の展示品はすばらしかった。

しかし何よりも私の胸を打ったのは、中央博物館の中央の広間に、ソウル市の巨大な模型が二つ展示されていたことであった。一つは1850年頃のソウル市、もう一つは1945年終戦直後のソウル市の模型である。これらを比較してみると、王宮は日本統治時代に大きく破壊され、もはや政治的機能を担うことのできないように管理されていたことが分かる。王宮前に建てられた日本統治時代の総督府の建物は、つい最近まで行政機関の施設として用いられていたというが、それはあまりにも威圧的な統治であったように思えてくる。おそらくこの博物館を訪れる韓国の子供たちは、修学旅行や遠足などでこの模型に接し、日本統治時代のソウル市がいかに屈辱的なものであったのかを目に焼き付けることだろう。そして日本統治以前の韓国に思いを馳せることだろう。私は日本人として、韓国人のこの感情こそ、理解しなければならないことだと感じた。二つの模型の写真を、私のホームページの写真コーナーでも紹介したいと思う。

 結局、その日の午後は、すべて王宮の観光に充て、夜はふたたびインサドンに戻って夕食、そして喫茶店へと渡り歩いた。話しは尽きることがなく、お互いこの3年間に起きたことをたくさん話した。とりわけ彼女の彼氏の話しが面白かったが、プライベートなことは書かないことにしよう。

 滞在四日目は単独でソウル市内を探索する。文化芸術の薫り高い学生街、恵化。庶民の市場が巨大なカオスと化した南大門。渋谷や原宿のように若者たちが集まる明洞(ミョンドン)。新興のオフィス街でもある、国会議事堂に至るまでの議事堂路。夜中の四時までオープンしている新しいデパート「Doota」などが立ち並ぶ東大門。そして最後は結局、伝統的な韓国料理を求めてインサドンに戻る。この日は歩きに歩いた一日であったが、そのなかで印象に残ったのは、南大門と明洞のあいだに新しくオープンした会賢地下商店街であった。たくさんの中古レコード屋と中古オーディオ屋が軒を連ね、どうみても音が悪そうなのだが、中古ステレオやレコードを求めて中年のマニアたちが集まってくるのであった。またそこから明洞駅に行く途中に、すばらしいCD屋を発見した。三列あるジャズの棚には、私の好きな類のものばかりが陳列され、しかもその選定にはこだわりがあるようで、どのアーティストのどのアルバムがよいのか、ということまで店主は知り尽くしているようであった。ジャズの棚はあまりにも私の趣味に適う品揃えだったので、はたしてこの店はやっていけるのかと少し心配になった。これほどこだわりのある品揃えの店を私は日本でも知らないので、誰かに伝えたい気持ちになる。

 滞在五日目、いよいよ講演の日が訪れた。韓国ハイエク協会の年次会合は、ソウルの北の高台に位置する北岳パークホテル(Bukak Park Hotel)で開かれる。当日私は、ビウォン(Biwon)ホテルからタクシーで北岳パークホテルに向かったが、余裕を持って30分で着くとみていたところ、途中の道は大学の卒業式で渋滞。結局、一時間かけて目的地に到着する。ちなみに韓国では3月に新学期が始まるので、2月は卒業式のシーズンである。卒業生の父兄がみな自動車で式典に参加するので、この時期は局所的にかなりの渋滞に巻き込まれてしまうことがあるようだ。渋滞にはまったく辟易したが、しかし一時間乗車しても千円程度であったから、これはかなり安い料金であろう。

一泊二日の予定で開かれた韓国ハイエク協会の年次会合、今年はその5回目で、私ははじめて外国から招かれたゲストだというので、光栄であった。私を招聘してくれた会長のヤンヤン・キムさんは、会ってみるととてもダンディな方で、意志が強くて人に優しいという印象を受けた。この日は、まず私の講演があって、その後は二人のメンバーの報告が夕食を挟んで続けられた。そしてその夜は、近くのバーで22時くらいまで語り合い、お互いに交流を深めたのであった。二日目は結局、予定されていた観光は参加者の数が少なくて中止、朝8時から10時ごろまで朝食をとりながら会話をして、お昼前に解散ということになった。

 英語での講演というのはとにかく緊張するもので、しかも当日は一時間の講演と30分の質疑応答であったから、私は持てる力を使い果たしたような気がする。最初に私が喋ったのは従軍慰安婦問題のことで、この点について私見を述べ、韓日友好の可能性について展望した。そして講演の導入として、日本におけるハイエクの翻訳書や研究書、例えば古賀勝次郎先生や嶋津格先生の本の表紙をスキャナーで読み取った画像を紹介した。これはとても関心を引きつけたようで、成功した。それからニューヨークのオーストリア学派と日本のオーストリア学派の紹介をして、いよいよ本論に入った。その内容はいずれ公表しようと思うのでここでは述べないが、日本経済の長期不況を診断する際に、ハイエク的観点というのは次の二つに分裂する、ということを述べて発表を結んだ。すなわち、一方では護送船団方式がもつ慣習的・慣行的な政治経済文化を保守する立場と、他方では雇用促進政策や独占禁止法の改訂を推進する進歩的な立場の二つである。

 質疑応答で興味深かったのは、ロスバード主義者からの次のような批判であった。彼によると、リバタリアニズムの立場からすれば、失業対策や雇用促進政策は否定されるべきであり、たとえ日本経済がその商慣行の機能不全から不況に陥っているとしても、倒産は自然法の下で生じうることなのだから、仕方ないというのである。ハイエク主義者はこの考え方に、にわかには納得しないだろう。自生的な秩序力を完全に用いるというハイエクの関心は、最小国家がなしうる以上の国家政策を認めているからである。そんな話しをして議論は盛り上がった。

 講演の翌日(滞在六日目)は、激しい雨が降る中、キム・イソックさんが車でホテルからソウル駅まで送ってくれた。そしてこの日の午後は、ニューヨークで知り合った友人イ・サンゴンさんを訪ねるために、ソウルから電車で約4時間のところにある第三の都市、テグ(大邱)に向かった。ソウル駅は昨年春に改装されたばかりで、空港のように大きな建物であった。また、テグ駅に至るまでの車窓に広がる風景も面白く、とりわけ私は高層マンション群が多いことに興味をいだいた。高層マンションの設計はどれも同じようなもので、しかもその壁面には「サムソン」だとか「現代建設」といった巨大企業の名前が大きく記されている。韓国では、マンションもまた巨大企業によって供給されており、しかも妙に画一化された建物なのだ。こうした画一的住居環境の下では、一方では巨大企業に対する批判(独占資本主義批判)と、他方では画一化された中産階級の生活を民主的に制御する可能性(社会主義経済への展望)とが、同時に意識の中で芽生えたとしても不思議ではない。おそらく、日本の1970年代に似た社会意識が生まれているのではないか、と私は想像する。韓国でマルクス主義が強いというのも、この高層マンション群を見ると、なるほど頷けるような気がする。

 テグ駅には、サンゴンさんが迎えに来てくれていた。約3年ぶりの再開に、私たちは抱き合って喜ぶ。彼はニューヨーク大学でジャーナリスト養成の大学院に進学していたのだが、途中で断念し、帰国してから2年後にようやくジャーナリストの仕事を見つけたということだった。その日は彼と伝統的な韓国料理を楽しみながら、ニューヨークの思い出を語り合った。夜はサンゴンさんの招待で、最近オープンしたばかりの高級ホテルに宿泊する。ちょうどワールドカップが二年前にあって、テグ市にもスタジアムが建設され、そのおかげでこの都市もずいぶん発展したようである。私の印象では、テグは札幌よりも大きな都市であるように思われた。

 翌日(滞在七日目)は、サンゴンさんの家族といっしょに、まず韓国伝統料理のランチを楽しんで、それからテグの近郊にある韓日友好の村、「友鹿里(ユウカリ)」という場所を訪ねる。秀吉が韓国に兵を送った壬申倭乱(1592-1642)の際に、加藤清正軍の先鋒将であった沙也可という武将は、反旗を翻して韓国との和平を求め、金忠善という名前で韓国に帰化した。大正・昭和の歴史学者たちは彼を国賊、売国奴と断じたが、しかし現在では日本と韓国の有効関係を結ぶ人物として、日本でも韓国でも好意的に紹介されている。例えば、実教出版の教科書「高校日本史A」(1999)の中に、その紹介がある。またワールドカップの際には、NHKの番組でも取り上げられ、話題を呼んだという。

友鹿里の鹿洞書院には、歴史の紹介ビデオのほか、金忠善の遺品や家訓などが展示されていた。またこの書院を運営している方は、金忠善の33代目の子孫にあたるということで、日本語も流暢であった。その家系図を見せてもらったのであるが、金忠善の子孫は現在、この地域に800人、韓国全体で2,000人もいるという。

 この日はまた、国立テグ博物館も見学した。ふだんは中学校の先生をしているというボランティアの方に説明を受けながら、すばらしい数々の展示物に感動する。しかし韓国の歴史紹介が、この博物館では壬申倭乱の紹介を持って終わっていたことにショックを受ける。それは当時の韓国の武将たちが、村の祭りで女装して踊ることで、秀吉軍をおびき寄せたという趣旨の展示であった。この展示の写真についても、私のホームページで紹介したい。

テグ観光もこれで時間切れである。テグ駅に戻り、サンゴンさんの家族と最後の別れを惜しみ、午後六時発の特急でソウルに向かう。サンゴンさんからは、韓国人の生活についていろいろ教えてもらうことができた。例えば、小学校の学校給食は、パンではなくすべてご飯が出るというので、単純に驚いた。あるいは韓国には「先生の日」というのがあって、生徒たちは女性の先生に、みなストッキングをプレゼントするというのだから面白い。また韓国料理は塩分が多いので、最近の市民団体は塩分を控えめにしようと呼びかけている、ということだった。それにしても韓国は肥満率が最低の国であるから、食事は概して健康的だ。サンゴンさんとの会話から、韓国の日常生活を窺い知ることができた。

 ソウルに戻ると、すでに夜の10時をまわっていた。翌日の朝には帰国する予定だったので、予約していたハミルトン・ホテルに直行する。

ところが翌日の朝、空港に着いて出国手続を済ませると、飛ぶはずだった飛行機が飛ばない。札幌の新千歳空港が吹雪で閉鎖されたため、便は欠航だというのだ。しかたなくもう一度韓国に入国して、その日は空港の観光案内所で紹介されたホテルに宿泊する。ホテルは空港近くのベッドタウンにある新築のモーテルで、快適だった。その日は街をぶらぶらと歩いて過ごす。

翌朝、再び空港で出国手続をして国際線に乗りこむと、緊張が解けて疲れがどっと出る。機内では頭痛薬をもらって飲んだりもしたが、約2時間半後には北海道に到着し、日常生活の感覚が戻って体調もやや回復する。

こうして計九日間の韓国滞在を終えてみると、韓国がいっそう近い場所として感じられ、すべてが掛替えのない経験となったように思う。その韓国は現在、日本の国土の27%にあたる土地に、日本の人口の38%が暮らすという人口過密国である。人口の約四分の一はソウルの首都圏に暮らしているようで、土地が狭いせいか、日本にはみられないような高層マンション群が乱立する。また例えば、味噌汁の味が少し違う(発酵度が強い)、オンドル(床暖房)が発達している、土のお墓の形が丸くてかわいい、など、文化的にいろいろな違いがあって興味に尽きない。閉塞感の漂う日本を一歩出てみると、社会を観察することがこれほどまでに面白くなるのだから不思議である。社会を見る目を養うためにも、またいつか韓国を訪問してみたい。韓国ハイエク協会とはこれからも連絡を取り合って、研究を進めていきたい。そして最後になったが、韓国ハイエク協会に私を紹介してくれた中山智香子さん、私を招いてくれたキム・ヤンヤンさんに、感謝の意を表したい。

 

[注:友鹿里にかんして、韓国語日本語の両方で書かれた資料が出版されている。『金忠善沙也可・友鹿里』2000年発行、鹿洞書院、\1,000-, W10.000-, 住所:大邱広域市、達城郡、嘉昌面、友鹿里585、電話:82-53-767-5790, FAX82-53-563-4732]